この記事では、
- 廉頗の生涯
- 廉頗の活躍(長平の戦いなど)
- 藺相如との『刎頸の交わり』のエピソード
- 戦国四大名将について
をわかりやすく解説していきます。
廉頗とはどんな人物だったのか?

廉頗(れんぱ)──その名を聞けば、戦国時代における趙国の守護神を思い浮かべる人も多いでしょう。
彼は、戦国四大名将(王翦・李牧・白起・廉頗)の一人に数えられる伝説的な武将です。
戦乱の世を生き抜いた数多の武将の中でも、廉頗は特に防衛の名手として知られ、
卓越した戦術眼と粘り強い守りで、強国・秦の侵攻を何度も食い止めました。
廉頗のすごさは、単なる武力だけではありません。
彼は「義」を重んじ、仲間を尊び、民を守るために己の力を尽くした人物でもあります。
特に、同じく趙を支えた名宰相・藺相如(りんしょうじょ)との「刎頸(ふんけい)の交わり」は、
彼の人間性の深さを象徴する逸話として、今も多くの人々に語り継がれています。
そんな廉頗は、人気漫画『キングダム』にも登場し、
現代のファンにも鮮烈な印象を残しています。
キングダムでは「戦場の鬼神」とも呼ばれるその強さと、
不器用なまでに真っ直ぐな生き様が描かれ、多くの読者を魅了しました。
しかし、実際の廉頗もまた、
誇張ではない圧倒的な実績を残した人物だったのです。
これから彼の生涯を追いながら、
その「強さ」と「義」の物語に迫っていきましょう。
廉頗の活躍と功績
🏷️堅牢な守り──城塞を活かした防衛戦略
廉頗の代名詞といえば、やはりその防衛戦術です。
特に、堅牢な城塞を活かした籠城戦は、彼の真骨頂でした。
敵軍が攻め寄せた際、城の防備を徹底的に強化し、
無理な迎撃には出ず、持久戦に持ち込んで敵を消耗させる──。
この慎重かつ緻密な防衛スタイルは、
当時無敵を誇った秦国の軍勢に対しても有効に機能し、
趙国の領土を守り抜くための大きな柱となりました。
特に「長平の戦い」の序盤において、
廉頗が率いる趙軍は秦軍・王齕(おうこつ)の侵攻を二年以上にわたり食い止め、天才・白起ですら安易に手を出せなかったと伝えられています。
このまま、廉頗が総大将を務めていたら「長平の悲劇」はなかったかもしれません・・
※詳しくは「長平の戦い」のセクションへどうぞ
彼の守りは、単なる防御ではなく、
国家を存続させるための“攻めに転ずるための時間稼ぎ”だったのです。
🏷️迅速な攻撃──燕との戦いで見せた機動戦術
防衛の名手というイメージが強い廉頗ですが、
実は機動力を活かした迅速な攻撃戦術にも長けていました。
燕との戦いでは、その才能が存分に発揮されました。
敵の油断を突くような素早い奇襲、
城を素早く攻略する短期決戦型の戦術を駆使して、
燕軍を圧倒する勝利を収めたと伝わっています。
この戦いでは、
「持久戦だけの将軍ではない」
という廉頗の柔軟な戦術眼が際立ちました。
状況に応じて守りと攻めを使い分ける。
まさに戦国の荒波を生き抜いた、名将たる所以といえるでしょう。
刎頸の交わり──藺相如との伝説

廉頗の名を語る上で、決して外すことのできない逸話──
それが「刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)」です。
これは、廉頗と藺相如(りんしょうじょ)という二人の英雄が結んだ、
命を懸けた誓いを表す故事成語です。
藺相如は、趙国の宰相として外交の天才ぶりを発揮し、
秦国に対して数々の交渉を成功させた人物。
しかし、もともと武功を立てて地位を築いた廉頗からすると、
「戦場で血を流していない男が、自分より高い地位にいる」ことが面白くありませんでした。
廉頗はたびたび藺相如に対して敵意を見せ、
藺相如の前に立ちはだかろうとします。
しかし、藺相如は廉頗に対し、
「趙国の力を削ぐ内輪揉めは絶対にしてはならない」と、
あえて廉頗を避け続けました。
藺相如の真意を知った廉頗は、
己の浅はかさを恥じ、ついには藺相如の屋敷へ詫びに訪れます。
そこで二人は、「もしどちらかが義を裏切るなら、
首をはねられても構わない」という強い覚悟をもって、
義兄弟の契りを結びました。
これが「刎頸の交わり」です。
刎頸──すなわち「首を刎ねる(はねる)」ほどの覚悟をもって、
互いを信じ合った二人。
この物語は、ただの武将と宰相の話にとどまりません。
廉頗がいかに義を重んじる武将だったか、
そして藺相如がいかに大局を見て動ける英雄だったかを、
鮮烈に伝えてくれます。
彼らの間に生まれた絆は、
趙国という国そのものを内側から支える大きな力となったのです。
「刎頸の交わり」の後、2人が健在の間は、戦神・昭王率いる秦国でさえも、
趙への侵攻は容易なものではありませんでした。
長平の戦いと廉頗の悲劇
戦国時代屈指の大戦、「長平の戦い」。
この戦いこそが、廉頗の人生にとって最も痛ましいターニングポイントとなりました。
紀元前260年、趙と秦の間で長平の地にて大規模な軍事衝突が勃発します。

当初、趙軍の総大将に任命されたのは、
防衛戦に絶大な信頼を誇った廉頗でした。
廉頗は、堅牢な防衛陣地を築き、
秦軍の猛攻を長期間にわたって耐え抜きます。
秦軍を指揮していた王齕(おうこつ)将軍率いる軍勢すら、
廉頗の築いた守りを突破できず、戦局は膠着状態となりました。
※王齕の記事はこちら👉️【秦六大将軍・王齕ー昭王の時代を駆け抜けた猛将】
しかし、ここで秦は動きます。
秦の宰相・范雎(はんしょ)は「廉頗は臆病になっている」という
偽情報を趙国内に流し、趙王に廉頗の更迭を促しました。
結果、趙王は評判は高いが、若く経験の浅い趙括(ちょうかつ)を
新たな大将軍に任命してしまいます。

※趙括は、キングダムでは伝説の三大天・趙奢(ちょうしゃ)の子
机上では天才的な才能を持っていましたが、趙奢は我が子の軍才を危ういものだと見抜いていました。病に伏していた「藺相如」も、身を挺して趙王に苦言を呈しましたが受け入れられませんでした。
この判断こそが、趙国を破滅へと導く致命的な失策でした。
白起(はくき)──
廉頗を前線から退かせることに成功した秦は、名将白起を密かに長平に送り込みました。
王齕と総大将を交代した白起は、若い趙括の隙を冷静に見抜き、徹底的な包囲戦術を展開。
趙軍は壊滅、趙括は戦死。
捕虜となった趙兵40万は、白起の命令により生き埋めにされるという、
戦国史上でも最悪級の悲劇が起こったのです。
廉頗がもしも司令官の座に留まっていたなら──
趙国の滅亡も、この大敗も、回避できたかもしれない。
そんな「もしも」が、歴史好きの胸に去来する場面でもあります。
廉頗にとっても、
趙国にとっても、
そして戦国時代全体にとっても、
長平の戦いはあまりにも大きな「失われた未来」を内包していました。
亡命と晩年──廉頗の最後

長平の悲劇を経た後、廉頗の人生は急速に厳しいものへと変わっていきます。
趙王の代替わりに伴い、
新たに即位した悼襄王との間に、政治的な不和が生じました。
忠義一筋の廉頗にとって、
政治の派閥争いや宮廷のしがらみは耐え難いものであり、
彼はついに趙国を離れることを決断します。
亡命先に選んだのは、魏(ぎ)国でした。
魏では一定の地位を得たものの、
かつてのような大活躍は難しく、
やがて楚(そ)国へと渡ります。
楚でも廉頗は将軍に任じられましたが、
既に年老いていた彼には、往年のような軍事的活躍は望めませんでした。
それでも、廉頗は最後まで「趙国のために戦いたい」という願いを抱き続けていたといわれます。
祖国への想いを抱えたまま、戦場に立つことなく静かに生涯を終えた廉頗──。
彼の死に際して、趙国は一人の偉大な英雄を失っただけでなく、
一つの時代の終わりを迎えたともいえるでしょう。
もしも、廉頗がもう少し趙国に留まることができていたら──
もしも、政治の波に呑まれなかったなら──
戦国時代の趙の運命は、また違ったものになっていたのかもしれません。
それでも、廉頗の生き様は、
「義を貫き、国を守ろうとした武人」として、
今もなお、多くの人の心を打ち続けています。
廉頗の評価と戦国四大名将について
廉頗は、戦国時代を代表する武将のひとりとして、
後世にわたって高い評価を受け続けています。
特にその防衛戦の巧みさは、戦国史上屈指といわれ、
敵であった秦国ですら、廉頗が趙にいる間は容易に攻め込むことができませんでした。
戦場での堅実な指揮だけでなく、
藺相如との「刎頸の交わり」に象徴されるように、
義を重んじる人間性もまた、廉頗の評価を高めた大きな要素です。
どんなに戦の才があっても、
誇りと仲間を大切にする心がなければ、本当の英雄とは呼ばれない。
廉頗はまさに、「知・勇・義」を兼ね備えた武人だったのです。
こうした功績により、廉頗は
**「戦国四大名将」**と並び称される存在となりました。
🔗 戦国四大名将とは?
戦国四大名将とは、
- 王翦(おうせん)
- 李牧(りぼく)
- 白起(はくき)
- 廉頗(れんぱ)
この四人を指します。
いずれも国を背負い、時代を動かした英雄たち。
そのなかでも廉頗は、
「守り」と「義」において、特に異彩を放つ存在でした。
【戦国四大名将・リンク案内】
- 王翦の記事はこちら ➡️ 鋭意作成中⚒️✨️
- 李牧の記事はこちら ➡️【趙三大天”李牧 〜悲劇の天才戦略家〜】
- 白起の記事はこちら ➡️【”戦神”の懐刀!六大将軍筆頭 白起(はくき)】
彼らの生涯と功績を追うことで、
戦国時代という壮大な物語の深みが、より一層感じられるはずです。
まとめ:義を貫いた戦国時代の英雄、廉頗
廉頗──
戦国の荒波の中で、
ただ勝つことだけを求めたのではなく、
「義」を胸に戦い抜いた稀有な英雄。
彼の戦いは、防衛の巧みさだけでなく、
国を守るため、仲間を守るため、
そして何より、自らの誇りを守るためのものだったと言えるでしょう。
藺相如との刎頸の交わりに見られるように、
廉頗はただの武人ではなく、
深い人間性と、強い信念を持ったリーダーでもありました。
もしも政治の策謀に巻き込まれず、
最後まで趙国のために剣を振るうことができていたなら──
戦国時代の地図は、今とは違ったものになっていたかもしれません。
しかしたとえ時代に翻弄されたとしても、
廉頗が貫いた義と誇りは、
時を超えて、今なお語り継がれています。
戦国四大名将のひとりとして、
そして、義を重んじた戦国時代の英雄として──
廉頗の名は、これからも決して色褪せることはないでしょう。
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👉️『”戦神”の懐刀!!秦国・六大将軍筆頭 白起(はくき)
📌参考文献・出典
- 司馬遷『史記』「白起・廉頗列伝」
- 原泰久『キングダム』(集英社/週刊ヤングジャンプ連載)
- 横山光輝『史記』(小学館)
- Wikipedia「廉頗」(最終閲覧日:2025年4月29日)
※本記事は上記文献、およびAIアシストによる情報整理・考察をもとに作成しています。
記載内容には史料の解釈に幅がある部分があり、筆者による考察を含む箇所もあります。
ご理解のうえ、お楽しみいただければ幸いです。
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